
新前橋商工会議所時代(昭和21年~)
昭和20年8月15日、かつて我が国が経験したことのない敗戦によって、戦時体制下の商工経済会法は廃止された。代わって誕生したのが、「社団法人前橋商工会議所」である。
新生会議所として、その目的について定款は次のように示している。
第4条本会議所は商工界の与論を結集してその実現に努め、緊密な連絡協力によって商工業者の利益を保護増進し、総合的に産業の健全な進歩発展を図り、もって地方経済の発展とその民主化に寄与することを目的とする
と規定している。次いでその経済活動の範囲については、第2条本会議所の地区は、前橋市及勢多郡の内木瀬村、上川渕村、下川渕村、桂萱村、南橘村、富士見村、芳賀村、群馬郡の内総社町、元総社村、東村、国府村の区域による
と定めている。いま考えてみると奇しくも昭和29年の合併地区であり、またその後の広域市町村圏内の区域であった。
そして昭和25年5月31日、商工会議所法が法律第215号をもって公布され、組織変更の期限である11月30日までに、この法律による商工会議所が全国にできた。
この法律によると、
商工業の改善発達を促進し、あわせて社会一般の福祉の増進に資するために商工業者又は商工業の改善発達に寄与しようとする者等の組織する商工会議所について定め、その健全で、且つ、民主的な発達を図ることを目的とする。
と、その目的を規定しているが、この法律は全文9か条しかない。いわゆる最少限度の規定がなされたのみで、あとは自主的運営にまかせるものであった。
しかしこの法律では、財政的問題に触れておらず任意の会員組織でありながら公益事業を行う会議所としては、その裏付けのないために十分なる活動をしえない欠陥があったことは事実であった。
こうした事情もあって、昭和28年8月1日法律第143号をもって、新たに商工会議所法が制定され、10月1日施行となった。ここに昭和25年制定の旧商工会議所法は、28年10月1日廃止された。
今回公布された新商工会議所法の特徴は、
1、商工会議所を特殊法人とし、その公益性、特に地域的総合経済団体としての性格をはっきりさせたこと。
2、会議所の構成において、会員制度に議員制度を加え、折衷的組織としたこと。
このことによって、従来の民法による社団法人とは根本的に異なるところとなった。構成面において任意に加入脱退できる会員が、会議所の意思決定機関である議員総会を構成する議員の選挙権を有することによって会員として意見を反映し、一方において議員制度の長所を取り入れ、一定規模以上の商工業者は、会員でなくとも、これを特定商工業者として議員の選挙権を有することにより広く地域内商工業者の全般の利益を図る体制が確立された。ここに会員のみの利益擁護機関ではない公共的な性格を帯びたものとなった。この法律が、現行商工会議所における根拠法令である。この法律の施行とともに昭和28年9月30日政令315号をもって「商工会議所法施行令」が、また通産省令52号をもって10月1日「商工会議所法施行規則」がそれぞれ制定公布された。
この法律の施行にともない当会議所は慎重に準備を進め、昭和29年12月8日会員総会の決議により、定款の変更、役員の任期変更等の臨時措置を定め、認可申請の手続きをとった。その結果同年12月21日認可の指令を受け、ここに新しい「前橋商工会議所」が発足することとなったのである。思えば、幾度かの制度改正によって、今日の商工会議所が確立されたのであった。
この時代における会頭、副会頭は、次のとおりである。
まず、会頭には、昭和21年11月片倉久登が就任し、34年5月伊藤正直、38年5月からは広田専之助、そして40年5月に佐田一郎が会頭に就任した。副会頭には、昭和21年10月佐藤栄太郎、田所安太郎の2人制となり、翌22年2月、深町牧太、小林武四郎が就任、次いで25年11月山藤菊次、伊藤正直、31年5月山藤に代わって広田専之助が就任し、34年5月佐田一郎が副会頭に就任、37年5月には、さらに、高畠佳次が就任して3人制となった。以来、40年5月金井八郎が選ばれ、同じく五十嵐羊之助が就任、46年5月代わって高桑惣太郎が、さらに52年5月荒木定雄に代わり、49年5月荒井政雄が就任した。
こうして新しい商工会議所時代を迎えて当会議所としては、平和条約の発効、原料、資材の不足、インフレの昂進、朝鮮事変による特需景気に次いでの相次ぐ好景気、そして近年におけるオイルショック等々、いつの時代においても、それなりの難しい経済情勢下において会議所活動はこれらに対応して活動を続けてきた。