
旧前橋商工会議所時代(昭和3年~昭和18年)
昭和2年4月5日法律第49号をもって「商工会議所法」が公布され、同年12月勅令374号をもって同法の施行期日を昭和3年1月1日とされた。
この法律施行にともなって前橋商業会議所は、同年5月11日定款を改定し「前橋商工会議所」と改称、ここに組織と事業を拡大し、経済情勢の推移に即応してその機能を発揮する態勢を整えた。今回公布された商工会議所法は、従前の商業会議所と比較して次のような相違を見出すことができる。
・名称を商工会議所と改め、工業関係者もこの組織に参加できるようにしたこと
・会議所の地区内の重要な商工業の業種別による代表者を、新たに議員に加えたこと
・議員選挙法を改正し、選挙権有権者を拡大したこと
・全国の会議所連合会を法的に認めたこと
・会議所の行い得る事業を列記し、従来の会議所が諮問機関であったのに対し、ある程度まで実行機関であること
さらに、商工会議所法は、その目的として商工業改善発達を図ることとされ、目的達成のため次の事業を行うことと規定されていた。
1、商工業に関する通報
2、商工業に関する仲介またはあっせん
3、商工業に関する調停または仲裁
4、商工業に関する証明または鑑定
5、商工業に関する統計の調査または編纂
6、商工業に関する造営物の設置および管理
7、その他商工業の改善発達を図るに必要なる事業
かくして、昭和18年までの15年間、前橋商工会議所が前橋経済界の中心的機関として活躍することとなったのである。
この時代を振り返ってみると、昭和の商工経済界は、その初頭から未曾有の苦難の道であった。なかでも本市産業の中心であった製糸業の萎微は一般農家の経済苦境を招き、一般の購買力の減退を招く結果ともなった。ちなみに昭和8年をみると、世界的な経済恐慌で前橋の主要産物たる生糸は、アメリカ市場で大暴落し在庫量はおびただしい数量に達した。
こうした情勢下であっただけに会議所としては、これらの問題の解決に重点をおき、小売業の振興と商権擁護、さらにこれらと並行して蚕糸業対策とに集中的な活動を展開したのである。
日華事変と会議所
昭和12年7月7日蘆溝橋事件に端を発し支那(日華)事変がぼっ発した。会議所は、事変発生以来時局の重大性に、しばしば産業団体または商工業者を集め、応召したものの銃後を守り営業の確保に万全の策を講じてきた。また、戦時体制下の産業経済金融等についても、その影響を調査するなど商工相談所その他の全機能を挙げてこの対策に活動してきたのである。
昭和13年には、理研工場あるいは中島飛行機工場が本市で操業を開始したことで一段と重工業化し本市産業に一大転換をもたらした。一般商工業においても物資動員その他によって多少の犠牲は免れなかったが、大勢において発展の道を歩んできたといえる。
そして、昭和16年12月8日大東亜(太平洋)戦争がぼっ発した。国内は戦時体制を一歩進めて決戦体制へと発展した。特に商業においては男子の不足は深刻化し、女子が第一線で活躍しなければならない時代となった。そのため女子商業実務員養成講座を開催する等、新たな会議所の活動を展開してきた。
こうした情勢は、17年5月13日の企業整備令の施行によりその深刻の度合いを一層加え、小売業の整備も実施され、諸業種組合の指導と商業報国会の結成指導を行うこととなった。そして迎えた昭和18年、整備事業の一層の推進によって、いよいよ新しい会議所の時代を迎えることとなったのである。